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二十歳になった頃、私は様々な年齢、様々な事情を持った人たちに社交ダンスを教えていました。色々な生徒さんがいる中で、期待や境界線に関してよく問題が生じるグループがありました。それは、不満が溜まった、中年の既婚女性のグループでした。私がインストラクターになりたての頃、新しいクラスを開き、ステップを2、3種類教え、そこから発展させていくということをしていました。私は純粋にどの生徒さんも同じ理由でクラスに来てくれていると信じていました。その理由とはもちろん、ダンスを習うことです。でもすぐに私は、様々な人たちが、様々な期待をもって来ていることを学びました。

このグループの女性たちの中には単純に、ダンスフロアの上でリードされ、若い独身男性の腕の中に抱かれる心地よさを楽しんでいる人たちがいました。また他の女性たちはさらに一歩先を求めていました。例えばルンバを練習中、彼女たちの手は私の背中から滑り落ち、都合よくお尻の上に着地したり、ワルツの練習中に私の肩に親密げに頭をもたれかけ、甘いささやきをしたりと。さらに同じカテゴリーの女性たちの中には、私の同僚が「ブラック・ウィドウ(黒い未亡人)」と呼んでいた人たちがいて、彼女たちは獲物を捕らえ、肉体関係を持ち、むさぼるためにクラスに来ていました。ダンスインストラクターとして多くのことを私は学びましたが、まず一番に学んだことは、期待が何なのかをはっきりさせ、境界線を明確にすることでした。

どんな人間関係においても、お互いの期待をはっきりと知ることが大事です。パウロは宣教旅行に出、テモテはエペソで小さな教会グループの責任者として残されました。そこでパウロはテモテに手紙を書きました。

「私たちの救い主である神と、私たちの望みであるキリスト・イエスの命令によって、キリスト・イエスの使徒となったパウロから、信仰による、真のわが子テモテへ。」テモテ第一1:1-2

パウロは手紙の冒頭で、パウロとテモテの関係を確立させています。その関係とは、霊的なことを土台とした父と息子の関係です。イエスが弟子たちに初めて出会った時も、どのような関係になっていくかを明確にしています:イエスはこう言いました。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師として送り出そう。」(マルコ1:17)。イエスは述べています。「もし私について来るなら、特別な仕事をするためにあなたのことを訓練してあげます。」

エスター・ローリー著の最近の記事「700人の牧師が退職前に辞める理由トップ5」では、「非現実的な期待」が牧師たちと会衆の関係崩壊の最大の理由の一つであると語っています(元牧師たちの49%が、彼らの教会は非現実的な期待を持っていたと考えている)。さらに、元牧師たちのほぼ半数は、遣わされる前に、派遣先の教会についての正しい説明を受けていなかったとのことです。特に、何かを変更する案において意見の対立が起きた際、牧師たちの期待と会衆の期待の間にあるこのような食い違いが負のスパイラルを生みました(この調査で対象となった牧師たちの56%が変更案件において衝突し、54%が結果として強い個人攻撃を受けたと言っている)。

多くの教会は、人々がすることの上に建てられています。教会は本来、イエス・キリストがすでに達成したことの上に建てられるべきであり、ミニストリーやリーダーがどれだけ素晴らしいかが土台ではありません。教会が福音を土台とする時にその自信は神から来るので、ミニストリーの成功や失敗によって浮き沈みしなくなります。不健全な期待を牧師たちが自ら背負いこむこともあれば、会衆が牧師たちに負わせることもあります。何にしても、神様に「そうだね、あなたの教会は素晴らしいね」と言ってほしいがためなのです。そのような教会は、不健全な期待を自分たちとリーダーに負わせてしまいます。そしてこう叫んでいるのです。「神様、私たちのやっていることを見てください!こんなにたくさんのミニストリーを持ってますよ。見て、こんなにたくさんの子どもたちがユースに来てますよ。神様、あなたは私たちの献金を喜んでるはずだから、祝福してくださいますよね。」

あなたは牧師に対してどのような期待を持っていますか?あなたの牧師は、どのような期待をあなたに対して持っていますか?それらの期待は、イエス・キリストがすでに達成してくれたことを土台としていますか?それとも、自分でいつももっと達成しなくてはいけないことがある、と感じていますか?

教会にとって、その役割、目的、期待を明確にすることは健全なことです。教会は、お互いの期待をはっきりと伝え合うことで、回避可能な溝の橋渡しを恐れずにするべきなのです。そうすることで、期待はずれ感を緩和し、牧師たちと会衆の両者が共にレースを走れるような方向へと進んでいきます。しかしその中でも、私たちはイエス・キリストの達成したことよりも、自分たちの達成したことに頼る、という状況は避けなくてはいけません。