もちろん聖書のことばは、すべて神の霊感によるもので有益なのものですが、私たちには、自分の人生に影響を与えた特別な聖句があるものです。あなたにとって聖書のどの箇所が最も重要だと思いますか?それらのことばは、どのようにあなたの人生に関係していると感じましたか?また、あなたが特に知るべき、聞くべき、神についての事柄に関して、どんなことを語ってくれましたか?私にとっては、パウロが語ったローマ人の手紙8章の言葉がその特別な聖句に当たります。
28. 神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。29. 神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。30. 神は、あらかじめ定めた人たちをさらに召し、召した人たちをさらに義と認め、義と認めた人たちにはさらに栄光をお与えになりました。
ここ数年、私はこの箇所に戻ることが何度もなんどもありました。私はかつて、ダン・マッカートニーが言う「熱心なクリスチャン」の一人でした。その「熱心なクリスチャン」とは、今のこの人生においてすべての病が癒され、罪が砕かれることを熱心に求めるのですが、自分がいる試練の中にも神の主権があると理解していない人です。自分が置かれている環境の中でコントロールを失った時や、計画していたことの中でも最も神聖だと思っていた計画が遮られた時、自分か悪魔を責めることは、私にとって簡単なことでした。その結果、私は外にある悪の力と戦うか、もしくは、内に敗北感を背負いこむようになりました。
この聖書の箇所は、神の「益(良いこと)」の定義が私の考えるものよりはるかに高く大きいということを教えてくれます。ここでは、一般的な幸福や健康、個人の安らぎについて語っているのではありません。生涯にわたる計画があり、その計画は神が私の人生のためにあらかじめ用意してくださったすべてのことに行き着きます。私に危害を与えるはずだったことですら、神が意図された益の一部となるのです(創世記50:20)。私の人生は難解な出来事の連鎖ではなく、「御子のかたちと同じ姿に」変えられていくという、より大きな計画の一部なのです。試練や失敗は障害物ではなく、私が変えられていくための方法なのです。
かつて私は自分一人の弱々しい手で、人生の一つ一つの部分をなんとか保とうとしていたのですが、今となっては聖霊が神のみこころに従ってとりなしてくれているのが分かります(ローマ8:27)。私の失敗した計画の裏に、もっと偉大な計画があります。それは、より大きなキャンバスに、そして人の終生にわたって描かれた絵なのです。神は私を変える方であり、私を義とする方、私の信仰を完成させる方です。私が時に人生の部分の一つを落としても、失敗しても、神の良い計画に変わりはありません。つまり、すべてが完璧であってほしいと思う時や、失敗をさせるためにある状況をストップしたいと思う時にも、私は安らぎを見いだすことができます。
私は、振り返ってみると、何かうまくできるようになったのに、その達成直後に、そのことから身を引いて次のことに進んだ、ということがいくつもあったことに気づきます。正規のプロセスを免除されてプロの演劇の世界に入れたのに、2、3年後には辞めてしまいました。好調な登り坂を生きる方法しか知らず、下り坂を何としてでも避けようとしました。山を登るために神は助けてくださると信頼していましたが、雨風を通しても働くことのできる神の力という点では、神を信頼することを知りませんでした。
神が私を御子の姿に変えてくださっていると知ることで、私が、自分が神のためにできることに注目するのではなく、神ご自身に注目できるように自由にしてくれます。一つ一つの障害物を即座に打破することは、もはや私の課題ではなくなります。神は私のことを愛に満ち、真実で、賢く、強く、良い、喜びに満ち親切な人、そう、イエスのような人へと作り変えてくれているのです。そしてもし神がそのために試練や失敗、対立を用いているとしたら、それで良いのです。私は自分の作り上げたものにおいて完璧を求めることから解放されます。なぜなら、混沌の中で神が私のことを完全にしてくれているからです。神があがないの計画を達成知るために働いていると知り、混沌の中でも神を信頼できるということはなんという自由でしょうか。そして、私たちが最も知るべき、聞くべき神についてのことを聖書が明らかにしてくれるということを知り、神のことばに信頼できるということはなんという安らぎでしょうか。
Footnote: Dan G. McCartney, 1998, Why Does It Have To Hurt, p.30
教会にとって、その役割、目的、期待を明確にすることは健全なことです。教会は、お互いの期待をはっきりと伝え合うことで、回避可能な溝の橋渡しを恐れずにするべきなのです。そうすることで、期待はずれ感を緩和し、牧師たちと会衆の両者が共にレースを走れるような方向へと進んでいきます。しかしその中でも、私たちはイエス・キリストの達成したことよりも、自分たちの達成したことに頼る、という状況は避けなくてはいけません。